
はじめまして。
HSP・アダルトチルドレンなどで生きづらさを抱えている方へ向けて 心に余白をつくるカウンセリング を提供しております、
心理カウンセラーの 上村 えりな と申します。
現在2人の娘(長女がHSC)の育児に奮闘しつつ、オンラインカウンセラーとして活動しています。
私はHSP気質や幼い頃の家庭環境の影響により、物心ついた頃から30年間生きづらさを抱えていました。
いつも親や周りの顔色を伺い、自分の気持ちを後回しにするのが当たり前。
自分の心に正直に生きられていない感覚に苦しみながらも、現状を変えられない自分に無力感を感じ続けてきました。
穏やかな日常を手にしたいと努力すればするほど違和感が膨らみ、心の中でもがいていた時期は本当に苦しかったです。
しかし、カウンセリングを通して自分の心と向き合ってきた今、自分自身を大切に思い、周囲との人間関係や子育ても楽しむことができるようになりました。
そんな経験を活かし、過去の自分と同じようにHSP・アダルトチルドレン・愛着障害・インポスター症候群などの生きづらさでお悩みの方へ向けて、心に余白をつくるカウンセリングを提供しています。
カウンセリングはあなたとカウンセラーの共同作業になります。
どちらか一方が話すのではなく、2人で協力しながら、より幸せになれる道を探していきます。
そのため、カウンセリングはカウンセラーとの相性が何よりも大切です。
では、私がどんな人なのか?というのが気になるところですよね。
下部に詳しいプロフィールを載せていますので、私のことを少しでも知り、参考にしていただけると幸いです。
繊細さを受け入れてもらえなかった幼少期
瀬戸内海をのぞむ小さな町で、両親と2つ年上の兄との4人家族で育ちました。
私は赤ちゃんの頃から、オムツがほんの少し濡れただけでも泣いて知らせる敏感な赤ちゃんだったそうです。
幼児期は何をするにも時間がかかり、洋服も気に入ったものばかり着たがるなど、自分なりのこだわりがあって大変だったとよく聞かされていました。
大変だったと言われる通り、私の思い出せる一番古い記憶は、イライラした母の顔。。。
「早くして!」といつも急かされていて、ゆっくり話を聞いてもらった記憶はありません。

人の多い賑やかな場所やイベント事が苦手でしたが、そういった場で集団の輪に入るように促され、パニックのようになったこともありました。
周りの子と同じようにできなければ呆れた顔をされ、否定的な言葉をかけられる。
いつしか急かされることに過剰に反応してしまうようになり、自信も持てず、常に焦っている。 そんな安心感のない幼少期を過ごしました。
父は基本的に物静かな人で、母に意見することは少なく、家庭はいつも母のペースで回っていました。
いわゆるHSC(Highly Sensitive Child)だった私は、常に母の顔色を伺い、母を不機嫌にさせない事ばかりを考え行動する子どもに成長していきました。
母に優しくしてもらいたい
ただそれだけだった幼稚園時代
母は4人姉妹の長女だったこともあり、長子である兄に甘かったです。
兄が何か悪さをしても、「こんなに優しいお兄ちゃんがそんなことするはずないでしょ」と、怒られるのは私。
なぜわかろうとしてくれないのか、憤りと無力感を感じていました。
小学校に上がる際、兄は新品の勉強机を買ってもらっていたのに、私は母が4姉妹全員で使った年代物の机をお下がりで使うように言われ、ショックでした。
母は思い出の品を引き継いでほしいと思ったようですが、兄と平等にしてもらえないということは自分は大切にしてもらえていないのだと感じました。
私が生まれたことを、「女の子が欲しかったから嬉しかった」と時々話してくれていましたが、だったらなぜもっと寄り添ってくれないんだろう?と、かけられる言葉と態度に不一致を感じて戸惑うばかりでした。
でも、そんなこと母に向かって言えるはずもありません。
少しでも優しくしてもらいたくて、肯定してもらいたくて、母に気に入られる娘でいようと本音を隠して必死に取り繕っていました。

内向的で何をするにも時間がかかる私に対し、外交的でせっかちという真逆な母。
私のゆっくりさが母をイライラさせていると感じるたびに、母を不機嫌にさせてしまう自分が悪いのだと感じ、自信をなくしていきました。
機嫌の良い時は明るくて楽しい母でしたから、そんな母の笑顔を見るのが好きでした。
だからこそ、母にいつも笑顔でいてもらえるように、精一杯心をつかって生きていました。
どんな時も母の気持ちを最優先していたので、いつしか自己主張することを諦めてしまいます。
どんな場面でも「本当はこうしたくないけど、自分はこれを選ばなければいけないんだから仕方ない」と考えるようになり、無力感を感じるばかりで息苦しい日々でした。
素直に甘えることも、わがままを言うこともできない。
誕生日やクリスマスにプレゼントの希望を聞かれても、自分の欲しいものがわからないくらい、自分の気持ちを押さえ込んで過ごしていました。
誰にも頼れず心を閉ざした小学生
父が単身赴任になったことをきっかけに、家庭での母の負担が増え、家庭内の空気がとても悪い時期が数年続きます。
家の居心地がとても悪く、毎日母が帰宅する頃には緊張して待っていました。
その頃の母の話といえば、職場の愚痴か父への文句ばかり。
それをひたすら聞いて受け止めるのが私の役目になっていました。
同じ頃、学校の人間関係で悩んでいたけれど母に言い出すこともできず、誰を頼っていいのかわかりませんでした。
自分のことだけで余裕がなさそうな母に相談はできない。でも、母を差し置いて他の人を頼ることはできない。
そんな思い込みをしていた私は悩みを1人で抱えるしかなく、孤独な日々でした。

そんな中、今なら母に話ができる!というタイミングが訪れ、思い切って相談事をしたことがあります。
するとその内容を次の日には祖母が知っていたことがあり、本当にショックでした。
ずっと悩んでいた事を、勇気を振り絞ってやっとの思いで打ち明けたのに、どうしてすぐ他の人に話してしまうのか…。
私は自分の気持ちを尊重してもらえていないとしか思えませんでした。
この時以降、心からの悩みを母に話したことはありません。
“普通”であるために必死だった中高生
一番身近な存在である母への頼り方すらわからなかったため、友人関係も上手く築くことができませんでした。
他の子達が盛り上がっている話題にいまいちついていくことができず、「みんなにとってこれが楽しいことなんだなあ」と、いつも外から眺めているような感覚でした。
自分が楽しいかどうかよりも、この場にいる自分の反応は間違っていないか?空気を悪くしてはいないか?そんなことばかり気にしていました。
そして、友人との仲が深まりそうになると無意識に距離をとり、深入りしないようにしていました。
“親友”という関係性への憧れを強く持っていましたが、同時に「自分のことを理解して大切に思ってくれる人がいるわけがない」と諦めた気持ちを持っていました。
実際、数人のグループの中で私だけ遊びに誘われなかったり、伝言役のように都合良く使われているような時もありました。
その度傷付いてはいましたが、「元々自分は大切にしてもらえる存在ではないんだから仕方ない」と、笑顔で平気なふりをし続けていました。
心を許せる相手もおらず、でも周囲から浮いていると思われたくなくて、常に周りの目を気にしては多数派の意見に合わせて過ごし、帰宅後はいつもクタクタでした。

学校生活の中で何かを選択する場面でも、いつも脳裏に浮かぶのは母でした。
「これを選べば母に嫌な顔をされないだろう…」そんな考え方しかできず、部活動さえ自分のやりたかったことに挑戦できませんでした。
自分に自信がなく、人前に立つことが極端に苦手で、授業中に発表をしなければならない場面では他の人にも心臓の音が聞こえるんじゃないかと思うくらいドキドキしていました。
みんなの前で褒められるようなことがあれば、どんな反応をしていいのかわからず、「1秒でも早く注目される時間が終わって欲しい」とばかり考えていました。
それなりに一緒に過ごすことのできる友人がいて、いじめられているわけでもない。
周囲から見れば“普通”の子だったと思います。
でも、その“普通”で在るために私はとても神経を使っていて、それでいて充実感のない、心がすり減る日々に無力感が募っていくばかりでした。
自己主張できず
母の期待に縛られた進路選択
高校生になり、将来の進路を考える時期。
私には呪いのような母の言葉があり、とても憂鬱でした。

幼い頃、母と同じ看護師になりたいと言ったことがあったようで、「将来は看護師になるんだもんね」と事あるごとに言われ続けていました。
そう言った覚えはなかったし、なりたいと思っていたわけでもなかったけれど、嬉しそうにそう話す母の期待を裏切る事はできず、本当は興味のあった進学先をとうとう言い出すことができませんでした。
看護師という仕事が、大変だけどやりがいのある素晴らしい仕事であることは理解していました。
どうせなら患者さんに寄り添い信頼される素敵な看護師になろう!と、どうにか自分に言い聞かせながら、看護学校へ進学します。
しかし心の中は、本音を言い出せなかった自分への落胆、後悔、苛立ち…様々な思いが渦巻き、望まない道を歩むことになってしまったことへの絶望感でいっぱいでした。
看護師として必死に働くも
不安と焦りでいっぱいに

無事国家試験に合格し、看護師として働く日々は、職場内や患者さんとの人間関係・緊張度の高い業務内容・不規則な生活リズム…様々なストレスで溢れていて、その日その日を乗り切るだけで精一杯の日々でした。
職場で不機嫌な人がいると自分のせいだと感じてしまい、必要以上に焦ったり気を遣って動きすぎたり。
頼まれた仕事は断れず、常にキャパオーバー。
そして「すみませんと言い過ぎ」と職場で指摘されるくらい、反射的に謝る癖がつくほど自分に自信を持てずにいました。
帰宅後は自炊なんてもってのほか。
顔を洗う気力すらなく、電気をつけたまま布団にも入らず床で寝てしまっていることが何度もありました。
それでも仕事は真面目に一生懸命取り組んでいたため、患者さんとも良い関係を築け、職場での評価も悪くありませんでした。
同じ部署の同期の中でも、一番最初に難しい業務にチャレンジする機会をもらったり、リーダーを任されるのも一番早かったです。
一見順調に見える私の仕事人生でしたが、周囲からの評価に相反して私の心はどんどん萎縮。
「失敗するかもしれない」という不安や、できていない部分ばかりを考えてしまい、心は常にネガティブな考えでいっぱいの状態でした。
「このままでは良くない…」そんな思いがずっと胸の奥にありましたが、それでも自分の心に向き合う余裕がなく、ひたすら頑張り続けるしかできませんでした。
結婚を機にはじまった
自分の過去と向き合う日々
20代後半で結婚し、夫の地元である他県に引っ越します。
知人が誰もいない真新しい環境に不安もありつつ、「ここから私の新しい人生がはじまるんだ。」そんな、希望に満ちた気持ちでいました。
しかし、その新しい生活は私の心を大きく掻き乱していきました。
夫の家族と関わることが増え、その家族関係の在り方に衝撃を受けたのです。
付かず離れず、程よい距離感を保つ関係ってこういうことなのかと、そんな家族関係を初めて目の当たりにした私は本当に驚き、そしてとても戸惑いました。
私の親は“毒親”なのではないか?
自分の育ってきた環境に疑問を抱いた瞬間でした。

「毒親育ちかもしれない…」と思ったものの、そんなふうに思っていることに罪悪感を感じて苦しく、その事からしばらく目を逸らして過ごしました。
しかし、今まではパートナーとして一対一の関係性だった夫と、お互いの家族を含めた人間関係へと変化したことで、意見が食い違ったり、理解が得られない場面が次第に増えました。
私は私が育ってきた中で大切にしてきた価値観を、ただただ大切にしているだけのつもりでした。
しかしある時、夫から「なんでそんなに他人のことばかり気遣うの?自分はどうしたいかで選べばいいだけじゃない?」と言われたことでハッとします。
その時は「他人を気遣うことは良いことでしょ?何が悪い?」と腹が立ちましたが、“自分がどうしたいか”をまるで大切にできていない自分に気づかされたのです。
そして、その思考の根底には“母に否定されないような言動をしなければ”という思いしかなかったことに気づいたのでした。
このことをきっかけに、少しずつ自分の過去と向き合うようになりました。
過去を振り返れば振り返るほど、私は母に対する嫌悪感や苛立ち、悲しみ…様々な感情でぐちゃぐちゃになっていきました。
母からのLINEの通知を見るだけでも嫌な気分になり、どんどん過去の嫌な記憶が思い出され、ネガティブな感情からしばらく抜け出せないことも多かったです。
自分の限界を感じた里帰り出産
そんな状態が数年に渡り続く中、やむを得ない理由で里帰り出産をすることになり、久しぶりの実家生活で限界を迎えます。

ホルモンバランスの乱れもあったと思いますが、常にイライラしていて両親に対してひどい態度をとっていました。
初孫を楽しみにしてくれ、身の回りのお世話もしてくれているのにひどい態度をとってしまうことへの罪悪感と、どうにも抑えられない嫌悪感でいっぱいでした。
“本当は里帰りなんてしたくなかった。”
“両親を満足させるために里帰りしてるだけ。”
本気でそんなふうに思っていました。
返事はいつもそっけなく、イライラしたくなくて会話の時に目を見て話すこともできなかったくらいです。
娘が無事産まれてからは娘の存在が何よりの救いでしたが、心が休まることはありませんでした。
里帰りを終え、夫と娘と3人暮らしになれた時の安堵感は今でも鮮明に思い出せます。
やっと自分に戻れたような安心感を感じたこの時、親に影響を受けすぎてしまう自分の心をどうにか変えたいと強く思いました。
HSP・アダルトチルドレン
だということを知り
少し気持ちが救われる
自分の悩みや生きづらさについて、本を読んだりインターネットで調べていく中で、自分がHSP・アダルトチルドレンであることを知ります。
正直、そのことを知れただけでも救われたような気持ちでした。
そして、本などに書かれていた「生きやすくなるための対処法」を色々と試し、少しずつ楽になった部分もありました。

しかし、初めての育児に追われて余裕のなかった私は外出する機会が減り、人との関わりが少なくなったことで生きづらさを感じる場面も減ったため、自分と向き合うことは後回しになっていきました。
自分の心と向き合って本音に正直に生きられるようになりたい気持ちはありつつ、そのための行動が伴っていない自分に気付く度落ち込み…、心の中は常にもやもやとした感情がある状態でした。
2人目出産を機に本気で心と向き合うことを決意
その後2人目の子どもを妊娠し、自分の感情をコントロールできない感覚に再び悩みます。
どんな時も自分にとって癒しの存在だった娘に対し、イライラしてしまう自分にとても戸惑いました。
前回の経験から里帰り出産はしませんでしたが、頼んでもいないのに泊まり込みで手伝いに来た母に再びイライラ。
ありがたいと思えない自分に罪悪感を感じ、結局前回と同じ状態になっていました。

その後も、赤ちゃんのお世話をしながら手のかかる2歳児と過ごすワンオペの日々は想像以上に大変でした。
長女が成長するにつれHSCだと気付いたため、自分のような思いはさせまいと、関わり方には気を遣っていたつもりでした。
それなのについイライラしてしまい、急かしてしまい…。
ある日、とても些細なことでどうしようもなく怒ってしまったことをきっかけに、このままではダメだと悟ります。
今までも自分と向き合ってきたつもりだったけど、自己流ではダメだ。
本格的に学んで根本から変わらなければ、本当の意味では変われないと思いました。
自分自身と本気で向き合い変わる事。
それは自分のためであり、娘のためでもあると思えたことで、やっと覚悟が決まったのでした。
なかなか変われない…
心の中でもがく日々
とにかく親への嫌悪感でいっぱいだった私は、ネットで見つけた毒親克服講座に申し込みました。
講座での学びは、確かに知識として知れて良かったと思うことや、救われた部分はありました。
しかし、講座が進むにつれて親に対する意識で頭は埋め尽くされ、過去と向き合う作業がとても辛かったです。
何より、自分の親を“毒親”だと思っていることに対する罪悪感がどんどん大きくなり、苦しくなってしまいました。
日々の家事・育児に追われ、すでにいっぱいいっぱいだった自分の心は講座についていけなくなり、残念ながら気持ちが楽になることはありませんでした。
意を決して講座受講したのに変われなかった…、そんな自分にしばらく落ち込みました。
しかし、「それでも変わりたい。現状をどうにかしたい!」という思いは強く、コーチング・HSP向けの講座・占い…色々なセミナーに参加しました。
本を読んだりネットで調べたり、自分の自由に使える時間のほぼ全てを使って、モヤモヤした日々から抜け出せる方法を探し続けていました。
カウンセリングを通して見えた自身の内面世界
そんな日々を過ごしていたある日、ここかもしれない!と思えるカウンセリングを見つけ、すぐに申し込みました。
電話で話すことすら苦手な私は不安も大きかったのですが、緊張して迎えた当日、カウンセラーさんとZoom越しで顔を合わせると、この人になら話せそうだと安心したことを思い出します。

カウンセラーさんは、つい同調してしまう癖のあった私に寄り添い、自分の感情に素直に向き合えているかを丁寧に確認しながらカウンセリングを行なってくださいました。
“親”との関係やそれにまつわる感情ではなく、私自身の状態を丁寧にみてくださったのです。
そのおかげで、「あれ?これって自分の素直な気持ちかな?」と立ち止まって考えることができるようになり、自分の本音に気づきやすくなっていきました。
他人に合わせることが当たり前の中生きてきた自分にとって、とても驚くべき変化でした。
そして、HSPゆえに日々情報を取り入れすぎてしまう私は、常に頭がパンパンで心に余裕がありませんでした。
そんな私に、カウンセラーさんは自分の心を守っていくための考え方を少しずつ伝えてくださいました。
無理なく、頑張りすぎることもなく、自分の状態を少しずつ整えていくことができている。
そんな感覚が心地よかったです。
いっぱいいっぱいだった心に、少しずつ余白ができていくような感覚でした。
心に余白のある状態をつくることができると、自分の心の状態を客観視したり言葉にできるようになりました。
そして、私が今まで抱えていた生きづらさの原因を理解していくことができたのです。
・自分と他人に境界線がなく影響を受けすぎていたこと
・トラウマや未消化の感情があったこと
・自分では気付けなかった思い込みや思考の癖があったこと
心に余白がない状態では、これらに気づくことができませんでした。
「気づく」ことは、生きづらさ克服への第一歩です。
「変わりたい…、でも何から始めていいのかわからない…。」
そんな状態だった私は、心に余白ができたことで初めて、生きづらさ克服への道を踏み出すことができたのでした。

これらの過程は、カウンセラーさんが客観的な視点を持ち、一緒に寄り添ってくださったからこそ気づけたことであり、得られた変化でした。
さらに心理学について学び、自分の心の状態を理解していきました。
学びを深めたことで、カウンセリングでの自身の変化が腑に落ちていきました。
「向き合っているつもりなのに変われない…」
そんなふうに一人でモヤモヤしていた状態から、意を決してカウンセラーさんを頼ったことで、どんどん視界が開けていったのでした。
余白のできた心で
感じられるようになった
日々の豊かさ
焦りやモヤモヤでいっぱいだった心に余白ができると、今までにない安心感とゆとりを感じられるようになりました。

ありのままの自分を受け入れることができるようになり、どんな感情も大切な自分の一部だと思えるようになりました。
そして、自分を受け入れられると、自然と周りの人との関係もよくなっていきました。
人と関わる時に適切な心の距離をとることができるようになり、あんなに苦しんでいた両親との関係も気にならなくなりました。
まだまだ手のかかる娘の感情も素直に受け止めることができるようになり、日々の成長を心から愛おしく感じながら過ごすことができています。
環境は変わっていなくても、自分の心が変わるとこんなにも見える世界が変わるのかと日々感動しています。
悩める人を救いたい!
カウンセラーとしての道
心に余白を手に入れ、自分軸で物事を考えられるようになった私は、自分の心が喜ぶ生き方をしていこうと決意します。
自分が本当にやりたかったことって?と考えた時、高校生の時に諦めた夢が頭に浮かびました。
しかし、もうあの時の後悔を感じることはなく、苦しかった出来事さえ、今の自分になるための物語の一部だったんだと素直に思えました。
「できれば思い出したくない。いっそのこと無かったことにしてやり直したい。」
そんなふうにばかり思っていた自分の過去を、大切な経験だったと思えるようになった自分にとても驚きつつ、誇らしい気持ちになりました。
そして、今の自分だからこそできることをしよう。
過去の自分と同じように苦しんでいる人に手を差しのべたい。
そんな思いを抱き、カウンセラーになることを決意しました。
これまでの経験と学びを活かし、現在はHSP・アダルトチルドレン・愛着障害・インポスター症候群などで生きづらさを抱える方に向けて、心に余白をつくるカウンセリングを提供しています。
沢山の後悔を抱えながらも学び続け、ようやく出会ったメソッド。
そのメソッドを、悩み、迷い、苦しんできた私だからこそ伝えられる言葉で、あなたの心に寄り添い、丁寧にお伝えしていきます。

カウンセリングを受けたことで人生が変わった私は、今でこそ「もっと早くカウンセリングを受けていたら…」と思いますが、自分を大切にする感覚を知らなかった過去、とにかく人に頼ることができませんでした。
だからこそ、過去の私と同じように
人に頼ることができない。
変われない自分に無力感を感じている。
本当は心の中でもがいている。
これを読んでくださっているあなたが、もしそんなふうに感じているとしたら、そんな方にこそカウンセリングをご活用いただきたいです。
あなたの人生の大切な残り時間が1秒でも長く幸せな時間となりますよう、あなたの思いに真剣に寄り添い、サポートさせていただきます。
いつからでも遅いということはありません。
人は変わりたいと思った時、いつからでも変わることができます。
私と一緒に、幸せな未来への一歩を踏み出しませんか?